空襲と製糸工場 伊藤トメさん
当時は小学校を卒業すると家を離れ働きに出ました。まだ12歳です。いつ空襲されるか分からない怖さを抱えながら、アカギレだらけの手足で働きました。食べるものもない時代です。たくさんの出兵を見送りました。戦争の記憶は、とても辛いことだからみんなは忘れなさいと言います。けれども忘れたくても忘れることなどできないほど大変な体験でした。
2時間見ただけで結婚されたという時代でしたが、「もう忘れた方が良いよ」と言われたその言葉の後ろには、トメさんの背負っている苦しさを感じ、いたわりの気持ちからの言葉だったのではないかと、編集をしながら感じました。自分一人のことで精一杯だったくらい、怖い体験。やっと生き延びたけれども、後から後から思い出される苦しさ。今の時代では想像もできないほどの出来事が、約80年前にこの土地でも起こっていた・・
現在の毛呂駅
伊藤トメさん 手記
「戦争の体験」
伊藤トメ(日高市在住)
民謡のお茶の時間に、民生委員の福山さんより戦争の経験をした人はどなたかいませんか?というお話がありました。皆さんは若いので、また、私が一番年長でしたので、いろんなことを懐古にあったことを書いてくれと頼まれました。
私は小学校を6年で卒業して、4月より大宮の片倉製糸へ入社しました。今思えばまだ子どもなのに、本当に苦労しました。
お休みはお盆と正月くらいで、繭から糸を繰る仕事なのでとにかく手が荒れて、お盆に家に帰った時、母に「こんなに痛くてたまらないので、死んだほうがマシだ」と言いました。それでは次の職場を見つけなくてはと言い、西新井の日清紡績へ入れて頂きました。綿から糸を紡ぎ布を織る仕事でした。
戦争が激しくなり、情報を知らせる人が東部軍管区情報で「只今、B29は、編隊を組んで木更津方面より本土に近づきつつあり、以上。」
これでは日清紡績は大きな会社なので、目標にされて爆弾を落とされればみんな死んでしまうと思い、朝早く内番の守衛さんに「西新井大師へお詣りに行ってきます」といって埼玉の家へ帰りました。
そして、2日後には本当に爆弾が落ち、会社はもちろん、友達も皆、死んでしまいました。実家のすぐ下の友達も火傷して、リヤカーでお医者さんへ行き、「どうして誘ってくれなかったの?」と恨まれるほどでした。
私の家は13人で暮らしていました。食物がなくて、大きな鍋に米と麦を少し入れて、あとは雑草をとってきて、みんな一緒に食べる程、大変な時代でした。手拭いも2ヶ月に1本配給されました。冬は寒くても足袋も靴下もなく、夜鍋をして藁草履を作り、アカギレが痛くても薬もないので、山の松の木のヤニを取ってきて火で炙り、火箸でアカギレに入れました。
戦争で祝出征と書いた旗を降り、当時は勉強どころではありません。3日に1度は送っていました。勝ってくる身と言って、勝ち栗と胡桃を食べて縁起を担いでいました。千人針も作りました。
私事で恥をかき作り一筆したためます。私の夫は18年に父を51歳で亡くし、19年に出征しました。20年に終戦になり、ソ連の寒いところに4年間抑留されていました。母が亡くなったとはつゆ知らず、兎に角一生懸命頑張ってきたのに、22年に母は53歳で亡くなったと聞いて、しばらく体が疲れて本当にショックだったと聞いています。縁あって、2時間見ただけで結婚しました。2人の男の子に恵まれ、今はとても幸せです。
ゴルフに行っている時に、インフルエンザの注射をしたら大熱が出て、10日くらい起きられなかったことがありました。今では何もしなければ、風邪ひとつひきません。今思えば、よく生きてきたと思います。今は食糧もたくさんあり、遊んでいても年金を頂き、昔を思うと考えられないほどです。私も明日のことは分からないので、今日1日を怪我のないよう、感謝で暮らしていきたいと思います。つたない私の文で失礼致します。
伊藤トメさん・プロフィール
昭和2年日高市(旧山根村)生まれ、7人兄弟の末っ子。94歳。
23歳でお見合い結婚。
戦時中、12歳から大宮や西新井の工場で働いた。戦後はゴルフ場や商工会などで長年働く。今も元気にグランドゴルフや民謡などを楽しむ。