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​満州からの逃避行 小島営子さん

小島営子さんは昭和14年か15年に(5歳)満州三河へ渡りました。そして、昭和20年8月9日、ソ連参戦の日から逃避行が始まって満州から日本への逃避行が始まりました。経路は、興安嶺~のんじゃん~チチハル~ハルピン~新京~奉天~コロ島から乗船して佐世保へ。昭和21年10月青森県津軽郡碇ヶ関村に帰り着いたのだそうです。11歳の少女が1年数ヶ月にわたる逃避行。実際にあったお話なのです。

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小島営子さん 手記

「満州の思い出」平成七年七月記 

                東京都 小島 営子(現日高市在住)

 父の転勤で、私たち家族は私が五歳の時に満州に渡りました。そこはソ連国境で、満鉄のハイラル駅で汽車を降りて、一昼夜トラックに乗って行った草原の果ての興安総省・ナラムト(三河(さんが))という所です。そこには白人系ロシア人・満人・蒙古人・朝鮮人・日本人がいました。日本人の女性や子どもがそこへ住んだのは私達が最初で、警察署、特務機関、営林署など特殊な仕事の家族だけでした。お正月は、役所の新年会に家族全員が招待され中華料理を楽しみました。春・夏・秋は廻りの山にはお花がいっぱい、魚釣り、野外音楽会、コザックダンスをしました。その時に小山時子さんと一緒で、何時も二人で冒険をしながら色々と楽しいことがたくさんありました。

 それから、弟・妹が生まれ、私が5年生(11歳)の時です。丁度、昭和20年8月9日ソ連参戦、その日は朝から慌ただしく学校へ行ったのですが、すぐに帰る様に言われました。夕方から近くの開拓団に一時避難のため皆トラックに乗って出ましたが、もう三河には帰れないと言うことで、そのまま興安嶺の山の中に入りました。

 次はトラックから馬車に変わりましたが、後からソ連の騎馬隊が追いかけて来たというので、馬車の荷物を軽くしなければならず、少しばかり持って来た荷物をどんどん捨てて走りました。その内に、馬は帰ってしまい、それから歩く事になりました。

 途中で今度は空からソ連の飛行機の爆撃に2回遭いました。それからは昼は危険なので夜歩く事になり、雨の降った時はびしょ濡れになりながらも、着替えがないのでそのままです。

 山の中は道もなく、川には橋もなく、浅い川は歩いて渡り、深い川は橋を作り、渡った後は敵が攻めて来るからと橋を壊して進みました。湿原のぬかるみに足を奪われ、45日間の逃避行でやっと部落をいくつか通り過ぎました。その2つ目くらいの部落の大きな河を船で渡った時、川岸で順番を待っていた時、(その日はたぶん中秋の名月だったと思われます)その晩のお月様は何とも言えないほど真赤で大きく、今でも目に焼き付いています。

 山の中では始めの頃は開拓団の連れて来た牛などで、だんご汁でしたが、段々具も入ってない薄い汁に山のきのこなど、ほかに食べ物はありませんでした。

 部落に入ってからは「唐もろこし」を沢山食べられ、美味しくみんな大喜びでしたが、蚊にさされたのが化膿して大変でした。

 やっと「のんじゃん」で何処かの避難した後の官舎らしい所に入り、庭の畠にあった菜葉など、美味しく食べました。

 少し寒くなりかけ、弟と妹は病気になりました。お医者さんはいない・薬はない、だんだんひどくなり、5歳と3歳、9月の終わり、10月の始めに帰らぬ人となりました。始めは一人づつお棺に入れられ埋葬されましたが、毎日多くの人が亡くなり、大きく穴を掘ってそこへどんどん投げ込まれる様な状態でした。

 その内に雪が降ってから父が(父は転勤でやけいしに行っていて避難した時は別だった)私達の所へ迎えに来て、冬になりチチハルへ南下し、チチハルでは難民収容所、女学校の教室で冬を越しました。その時大部分の人が発疹チフス(しらみが原因)になり、私もその時にもう駄目だと思ったそうです。

 となりの知らない人に氷砂糖(角砂糖)をもらい、それをなめて元気になったと母が話していました。その時から父も病に倒れ、それから私達は病人の人達と一緒に行動をすることになり、何をするのにも1番後に回され、元気な人達よりも遅れて移動する事になりました。

 色々な病人がいて熱が高くて、子どもを亡くして発狂する人、まだ生きている内から耳目鼻に蠅が出入りして卵を生み、その内に蛆が生まれて動き出す、子ども達は栄養失調になり、ビアフラの難民の子どもと同じ、手足は細くお腹がふくらんで、あの頃の自分たちもそうだったと思い出しています。

 あの広い広野をぞろぞろと歩いたり、汽車は貨車それも無蓋車、夜は真っ暗で落ちそう二なり怖い思いでした。行けども行けども広々とした高粱畑が続いていました。

 チチハル、ハルピン、新京、奉天、コロ島から乗船して佐世保に着き、船から見た廻りの松の緑の濃い景色に、あー日本に帰った事と、お米のご飯を食べた時には感激しました。

 昭和21年10月父の実家がある青森県南津軽郡碇ヶ関村に帰りました。父は帰国以来20年近くも入退院を繰り返しの療養生活を送り、昭和38年3月亡くなりました。

 碇ヶ関には真ん中の妹がいて、母はその後碇ヶ関と東京を行ったり来たりで、毎年の高尾山の慰霊祭には必ず私の所に来ては、皆様とお会いするのを楽しみにしていました。

 その母も今年は83歳6カ月体調が悪くて出席出来なくて残念に思います。母が高尾山へお参りを始めたのが昭和52年4月3日(火)から毎年、私が母と一緒に、始めたのが昭和58年からですから、皆様とのお付き合いも今年で13年になります。

 これからも妹とお参りさせていただきたいと思います。先日藤田会長様より何でもよいからとお話があり色々と迷いました、下手な文章ですが、私にとっては初めてで最後だと思い、まとめてみました。

 あの頃のことがだんだん忘れられて行くこの頃、時々思い出しては誰かに話し伝えて行きたいと思っていました。先日長女の所が転勤で三重県の津から札幌へ行くことになり、私も手伝いに行き、孫が5歳、3歳、1歳でみんなに寒い所にへ行くから大変ねと言われましたが、5歳の孫と同じ年に私は満州へ行きました。

 孫は飛行機に乗って札幌に行く事をとても喜んでいました。私もこんな気持ちだったのかなあと思いました。『おばあちゃんは札幌よりももっともっと遠い遠い寒い寒い所へ行ったの』と話してきかせました。

 あの時期、7年間広い大陸で育った時の思いが心の何処かにあるらしく、私の周りの友達は、私の事を大陸的だと言われます。

 戦後50年色々な事があり、それを乗り越えられたから今の幸せがあると思います。

​参考資料 満州コウリャン畑

     高尾山の戦争慰霊碑

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小島営子さん・プロフィール

昭和9年青森県生まれ、87歳。

植林の仕事につく両親と5歳で満州に渡る。昭和21年満州より引揚げ、故郷青森に戻る。その後都内で暮らしていたが、30年前に日高市へ越してきた。7人の孫に恵まれ忙しい日々を送っている。

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